機関紙けんさん

 幸福会ヤマギシ会新聞 けんさん


知的革命

●知的革命(98)-2005年12月号掲載-
社会愛主義社会(79)  吉本隆明氏との対話(七)

 そこで完全分業の精髄・精華とは、とその秘められた実態へと分け入ると、その人らしく生きてもらうために他の者が替わってやることがあるなかにこそ見いだされるのではなかろうか、という気づきだった。
  たとえば今親に何を望むかと問われて「干渉しないで勝手にやらせて欲しい」とか時には「何も生んでくれと頼んだ覚えはないぞ」と憎まれ口をたたいたりした 過去をふり返るなかで、今になって「親が親らしく生きてもらうために、親が今やっていることのなかで替われるものがあったら替わってやらしてもらいたい」との切なる願いを覚えるのだ。
 周囲環境や両親を経て多くのものを連綿と受け継いで、いろんな荷物を背負って立たねばならぬ先達の人に「それぐらいは伝えてもらった ら私がやりますから、あなたはあなたにふさわしい仕事をやって下さい」と自分も一役引き受ける「一体の関係」が適材適所の社会をつくるのだと思い至るからである。
 「自分でメシ食ったんだから、自分で茶碗を洗え」とか「そんなにいうのならたまには替わってやってみろ」と悪態をつく間柄では味気な い。やはり各人各様の形で産まれてきているのも自然全人一体の産物だからで、分業って分身業(わけみたま)、つまりもともと一つのものを便宜上分けただけ なのだと納得される。すると心一つでやることと一律にする窮屈さとは分けて考えられるし、村の片隅で草取りしていても実は各種世話係が自分の身替わりで一 役はたしてくれているのだと実感されてくる。こうした一体の深まり合いでこそ、最も大欲で自分を大きく生かす「私の社会」に発展するのではと。
 事実、日々の主食お米の生産一つ見ても、俺の俺のと自己主張してまで狭い耕地を占有するよりも、適地適作で稲作の専門分業実顕地のそ れのみに打ち込んでいる相棒に委した豊かさを実証しつつある。どこかの国の私有を廃止して公営や国営にしたら仕事に励む人がいなくなった事実とどこがちがうのか?
 このように全てに優先して自分がよくなるための一体観に価値をおいていくと、
「私の田んぼの広さに驚いた。私はまいた覚えのないのに、行く所至る所に麦、菜種が色づき熟れている。頼んだ覚えもないのに見も知らぬ一体の家族たちが麦の収穫を始めていた」(山岸巳代蔵 『私の旅日記』より)という全てが自分に関係すること、ひとごとは何一つない世界が開けてくるようなのだ。
 世界中におきる全てのことは、自分から発して、自分に還るという観方。つまり何かことがおこった時「知らなかった」「気づかなかっ た」というが、それは理由でなく、自分から見た時の原因であり、知らないからできなかった、思い至らなかったので、全ては自分のやること、またはやったことの地球上の集積が「私の社会」なのだと。
 お互いがらしく生き、活かすことが人間の個別性を最大限尊重・肯定する指針だとするならば、全てのことを自分のこととして為し、自分 の生き方として生き、必然報酬の求めも他を責めることもないサラリとした、しかも幅る辱しさに気づいて高ぶらない、そんな「一体として革命された」人間像にまでたどり着いてしまうのだった。  

▲ ページ上へ戻る