幸福会ヤマギシ会新聞 けんさん
●知的革命(97)-2005年11月号掲載-
社会愛主義社会(78) 吉本隆明氏との対話(六)
昭和三十六年に発表された「ヤマギシズム社会式養鶏法」は、大勢が寄って心一つにしてそれぞれが専門の配置につく形態でこそ偉力を発揮することができる とされる。例えば、あまり頭を使わず・自分の考えを入れない・子供のような社会体験のない・我流入れない素直にやる一卵性双生児のような飼育係であってこ そ、はじめて鶏も自由自在に使いこなせて素晴らしい成果があげられるとされる。ふとアンデルセン童話の一本の古い鉛のスプーンを溶かして作られた二十五人 の鉛の兵隊の物語が思い浮かぶ。しかもこうした一体観は新しい未知の社会形態にまで及んでいく。つまり社会の仕組みも人間が幸福に暮らせる方式を編み出す 試験場とそれをその通りやってみようとする実顕地とに分けたり、人間の生き方までにも皆の声を聴く係、考える頭の係、伝える口の係等々の役割に専門細分化 されていく。そしてそこに専念することで誰もが時の最先端を歩めるのだとされる。
前回に引き続きこうした「一体の完全専門分業」社会という表現に込められた、一般社会通念からは突飛に聞こえる実態の機微に少し触れていきたい。
というのも以前筆者は、国の農業共同化推進の時流と共に各地に続々誕生したヤマギシズム実顕地がしばらくして分解・解散してしまった原因を探るために昭和 四十年代後半そこに関わった人達を訪ね歩いてみたことがある。その時の皆の声は「ヤマギシには自由がなく窮屈だ」という考え方に集約された。本当にそうな のかどうなのか、自らの体験も省みつつ確かめたくて今日に至ってしまった感があるからだ。
ヤマギシ養鶏を始めた頃、よく「とまり木(棲架)には理想社会の仕組みがある」と見なして一人ひとりが無理をしない社会機構の姿を描 き合ったことがある。なぜなら中高・後高と少しづつとまり木の高さが違って、一羽一羽の適応・好みの場が得られるような環境下では、一つの場を何羽かで 争ったり、相手の場に押し入る必要もなく、自由なる生活が鶏の日常に実現しているという。だから人間社会にでも、他に真似の出来ないその人らしく生きられ る侵し侵されない自由なる「おさまり場」があるはずで、そうした場で暮らせることが真の幸福ではなかろうか、と。
かくして話題はいつも誰も傷つき侵されない各々の立場において"らしく"生きることで、自ずと制度や法律や監視などはあまり要らなく なる、そんなおとぎの国のような世界の話に花が咲いた。反面完全分業をつきつめていくと"一体律"とでもいえる「してはならない、させてはならない」とい う自由であればこそ一切甘えの入らない自分が立つ立場を問われているようで心がふるえた。
普通一般的にはそれぞれの人が思い思いのことをやって、それを皆が理解し合えるところに理想をおきがちだが、その程度では余りにも味 気ないというか水くさい。そうした今までの自分で自分を護り主張する見方考え方からの母と子の一体や家族の一体の囲いを外した、事実その中で生きている自 分を知らされると、そこに望みもしなかった「仲良し」の実態が照らし出されてくるのだった。