機関紙けんさん

 幸福会ヤマギシ会新聞 けんさん


知的革命

●知的革命(96)-2005年10月号掲載-
社会愛主義社会(77)  吉本隆明氏との対話(五)

 ヤマギシズム生活実顕地に住み始めた頃、日々の鶏や豚の世話と全人幸福社会の実現という理想とのつながりを実感したかった。毎日の惰性による習慣化した 仕事作業のくり返しに終始していると理想がぼやけてきて、自分がここに生きているという事実とは遠くかけ離れた先のお題目にしか感じられなくなっている自 分にハッとすることが再三あったからだ。理想と現実の落差を浮き彫りにするような出来事に直面しては「理論はもっともだが、なかなかそうなりきれない」と いった愚痴をこぼしがちだった。
 そんな時ある研鑽会で誰かが急に思いついたように「S実顕地にコーヒーを贈りたい」と発言した。エーッそんな些細なことが研鑽会の テーマになるの? 、とその場違いにも感じられる発言にあ然としながら、そういえば今S実顕地は生活費を切りつめながら鶏舎建設を進めていて、自分たちにも協力できることが あれば何でもさせてもらいたいと常日頃いっていたなぁと思い返された。
 もちろん研鑽会は、その提案から皆の気持の底にもともとあったものにパッと火がついたかのように、次々とお互いの心を通い合わせる発言で盛り上がった。
 そうか、一人ひとりのちょっとした心の動き、たいていの場合ふっと浮かぶ気持なんてひとに言うのも恥ずかしくて自分ですぐ打ち消してしまいがちだけれど も、そんなふとした気持が実行に移されて「実顕地」ができていくんだなぁと思いしらされた。ヤマギシズムでの「けんさん」を研鑽会だけのものにしないで日 常化するとか、イズムを生きるとは、こういうことだったのか!?。「われ、ひとと共に繁栄せん」って、例えば一日に三杯飲んでいたコーヒーを三人のひとに 飲んでもらったときのコーヒーの味かもしれないなぁ、と急に視界が開けた明るさを今も思い出す。
 理想は必ず「方法」によって実現する。しかもその方法しだいで、全人幸福といった理想につながる生き方は可能なのではないか?  つまり理想を常に研鑽すること、理想を自己の生活に日常化すること、日常のすべての衣食住生活・経済生産活動が理想に適う「生活体」にするという方法に よって可能だという考え方の洗礼を受けたはじまりであった。
 例えばまた「仲良し」というごくありふれたテーマを皆で研鑽し続けることがある。すると今まで小馬鹿にしていた仲良しの観念が取り除かれて、誰の心にもある本当のといいたい仲良しの実態が表面化されてくるのだ!
  芥川龍之介の小品『蜜柑』は、汽車に乗り合わせた前の席の田舎者らしい、下品な、不潔で不快、愚鈍な心等で形容される、私には腹立だしく感じられる小娘 が、なぜか窓を開けだした。そのうち町外れの踏切で手をあげる三人の男の子らの頭上に鮮やかな蜜柑色が乱落したのだ。私は思わず息をのみ、刹那に一切を了 解する。恐らくこれから奉公先へと赴く娘はわざわざ見送りにきた弟達の労に蜜柑で報いたのである。この光景が私の心に切ない程強く焼きつけられた、という 粗筋だ。
 こうした一見粗野に見えるところに真価の偉大さを発見する、といった味わいはヤマギシズムでも事欠かないのではなかろうか。 

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